auientの日常

ノンジャンルで書きたいことを書くブログ

父親の死に際して思ったこと/分かったこと

  • 人は、何が原因であれ、ものを食べられないと死ぬということ。
  • 生活することを指して「食べていく」というが、それは文字通りなんの修飾もなく事実であること。
  • 数年前に祖父が亡くなったとき、水が飲めなくなって3日で少しむくんでいた体がすっきりと乾くようにして逝った。父は点滴を入れていたので1ヶ月以上持ち、全身の肉をすべて栄養に変えて命をつないでいるようだった。食べられなくなるということは、そういうことであるということ。
  • 回復を諦めて約1ヶ月ベットの上で過ごしたことは、父にとって辛いことだったかもしれないが、家族にとっては十分な別れの時間であったこと。
  • 延命治療を拒否することは、父にとって生きることを諦めることではなかったということ。父はトンカツを食べたがったり、リハビリしたがったり、家に帰りたがったりして、とにかく諦めが悪かったということ。
  • 叶わないのは分かってはいたが、トンカツを食べさせてあげたかったこと。家に帰してあげたかったこと。叶わないから泣くほどに悲しかったこと。
  • 字が書けず喋れなくなっても、耳が聞こえて顎を動かせれば意思疎通は図れること。オープン質問は難しいがクローズ質問はできること。それによって意識がはっきりしていることが分かること。
  • 臨終の際にあっても父の意識はしっかりしていたこと。母を愛しており、孫がかわいいと父が意思表示したこと。私は父の子でよかったと思い、それを伝えられたこと。
  • 父の最期を見届け、人が死ぬ瞬間をつぶさに観察する機会を得たことは、運がよかったということ。

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  • 葬儀屋は24時間営業であること。火葬場ではチップに領収書がもらえること。
  • 戒名料を明記しておくことは遺族にとって大変ありがたいということ。寺にはさっさと金を渡すべきということ。
  • 日常のふとした瞬間に死を感じること。ホワイトボードに書かれた予定表の名前に、玄関に置かれたままの革靴に、メールの差出人のアイコン画像に、喪失感を感じること。
  • 4.5歳児でも人の死を深く理解するということ。2.5歳児には分からないということ。
  • 我々は残されたというか、「我々は未だいる」という感覚が正しい。我々は生きていかなければならないということ。